幸福はささやかに・・・

祈り

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ずっと最近、「祈り」について考えています。

 

考えるより、祈ればいいじゃん! と言われそうですね。たしかにそうなんです。

 

私が日々お寺でやっていることも、ひいては祈りに通じるのかもしれません。

でも、ダイレクトに「祈っているか?」と尋ねられるとあまりよくわからないのです。

 

何故私がそのことを考えているかというと──

やはりご相談者や、仲間の人の悩みや苦しみによく出会うからです。

今の自分は元気になって、余り何も問題を持っていません。しいて言えば、経済の事ぐらい。

それで、いつも『祈り』は大事なのでは、と思っている。

朝夕、少しの時間にはふと言葉に出すこともあるし、大体は心の中でです。

 

親しくさせていただいているドミニカン修道院の修道女の皆さんには、これまで何度か入院や手術の際、祈っていただきました。頼んだわけでもなく、皆さんが自主的にそうしてくださったのです。

それには深く感激いたしまして、私もそうでありたいと願うようになりました。

 

禅宗では、「今ここ」に三昧することが一番の修行なので、人様については心を添わせるぐらいしかやっていない、と自分では思うのです。なので、その人がいないときにも何かできないかなあ・・と。

 

 

上に貼った『晩鐘』でしたか、とても好きな絵画です。実家の応接間にレプリカがあって、飾ってくれた祖父がまず大好きなのでした。

子供の頃は何気なく見ていましたが、又改めて眺めますと、天地に対する(大いなる神)感謝にまさる祈りはないように感じます。

こうして普段に、しかも労働の後、さっさと帰るのではなくて大地の上で静かに祈る姿には、ずっと見ていると涙が出てきます。夕陽が射しているなか、晩鐘が鳴って・・

なんて、美しいのだろう!

私は、こうした敬虔な気持ちがあるのだろうか、と問うてしまう。

 

 

 

それに謙虚さとか敬虔さは、そうなろうと思ってなれるものではありません。

誰のためでもなく、本心から出たものが限りなくつづいていくとき、いつしか身につくのであって、(自分で自分を謙虚と言う人がいないように)ある日染み出てくるものではないかしら。

 

まだまだ、私は傲慢で世俗的で自分勝手です。

 

でも、シスターたちもいつも読んでくださっている小冊子は、ほんとうに心を込めて作っています。仕事に心を落としてやることも一つの祈りでありますように。

そう信じて、新たに日々を又暮らしていきたい今日この頃です。

 

*もし、祈りについて何か教えていただけることがありましたら、どなたでも、お願いします。